「自動化の弊害」

 最近トイレで用を足した際にふと思ったことがあります。
 ”水洗ボタン”を最近押した記憶がないなぁ、と。

 現代の世の中では、本当に様々なものが自動化され、便利になってきました。エレベーター、エスカレーター等、体力を要する場面で楽をさせてくれるものから、コンピューターによる漢字の自動変換、自動計算機能等、思考を要する場面で楽をさせてくれるものまで、ありとあらゆるものが自動化されていきます。そして今後も、新たな自動化により便利になっていくものが増えていくことでしょう。これらは圧倒的な時間の短縮にも繋がるため、より多くのことが空いた時間にできるようになっていることは紛れもない事実です。

 ただし、自動化によって人間は豊かになっているのかと言われると、疑問符が浮かびます。

 文部科学省により昭和39年から行われている調査によると、食物の変化により現代人の身長、体重は増加しているものの、体力テストの記録は軒並み低下しているようです。
 他にも、自動変換に依存しており漢字が書けなくなってきているといった有名な例から、仕事上でも、考えずに自動で成果物を作成できるため、根本を理解できておらずうまく説明ができない、といった例もあるでしょう。また、よりせっかちになり、待つことができなくなってきているようにも感じます。

 だからといって全てアナログに戻すことは無意味です。そのため、何も出来ない人にならない防止策として、自動化されたものをただ使うのではなく、自動化されるものの前で一度立ち止まり、これは本来人間が何をしなければならなくて、何を便利にしているのかを考えた上でその利便を享受する癖をつけること。これは非常に大切なことではないかという結論に自分の中で至りました。

 何も考えずにいると、水洗ボタンを押すべきトイレに入った際、押さずに出ていくようになってしまうかもしれません。